2010年02月07日
長崎平戸/映画「幸橋」:開港と鎖国
~鎖国へのあゆみ~
日本で初めての海外貿易港として栄えた平戸港には、
16世紀後半に、ポルトガル船やスペイン船などが来航した。
平戸は、古くは大陸への寄港地、16世紀中頃からは明商人王直の
私貿易の根拠地として栄えた。
また天文19年(1550)、ポルトガル船の来航に始まる西欧文化導入の
最初の窓口となり、戦国から江戸時代にかけて、スペイン・オランダ・
イギリスの船が相次いで来航、オランダ・イギリスは平戸に商館を設置、
その富を求めて京都・堺の豪商が集り、当時、平戸は名実ともに日本を
代表する国際都市であり、「西の都」と呼ばれるほど繁栄していた。
一方、西欧諸国との貿易ではキリスト教布教の問題があった。
天正15年(1587)の秀吉による宣教師追放令、慶長18年(1613)の家康
による禁教令にしたがい、松浦氏の歴代藩主も中央政権の方針に従って
勧商禁教の方針をとっていた。
幕府は,封建支配のさまたげになると考えられたキリスト教の禁止を徹底
させまた,西日本の大名がによって勢力を強めることをふせいで,幕府が
貿易の利益を独占しようとした。
貿易の利益のため,はじめはキリスト教を黙認したが,1613年に全国的に
キリスト教の禁止を命じた。
1616年にはヨーロッパ船の来航を平戸・長崎に限定し,
1624年にはスペイン船の来航を禁じた。
1633年には奉書船(朱印状のほかに老中、奉書という許可証をもった船)
以外の海外渡航を禁止し,1635年には日本人の海外渡航と帰国を禁止した。
1637〜38年の島原・天草一揆(島原の乱)の後,1639年に第3代将軍徳川
家光はポルトガル船の来航を禁止して鎖国を完成させ,1641年には平戸の
オランダ商館を長崎の出島にうつした。
こうして鎖国下の貿易港は長崎だけとし,オランダと中国(清)の船だけの来航
をゆるした。
16世紀中頃から約100年の長きにわたる平戸の対外貿易はここに幕を閉じ、
”国際都市”平戸は歴史の表舞台から消えることとなった。
「西の都」と呼ばれた平戸
映画「幸橋」公式ホームページ
http://saiwaibashi-movie.com
映画「幸橋」を企画した、「どらまか企画」のホームページです。
http://doramaka-kikaku.com
日本で初めての海外貿易港として栄えた平戸港には、
16世紀後半に、ポルトガル船やスペイン船などが来航した。
平戸は、古くは大陸への寄港地、16世紀中頃からは明商人王直の
私貿易の根拠地として栄えた。
また天文19年(1550)、ポルトガル船の来航に始まる西欧文化導入の
最初の窓口となり、戦国から江戸時代にかけて、スペイン・オランダ・
イギリスの船が相次いで来航、オランダ・イギリスは平戸に商館を設置、
その富を求めて京都・堺の豪商が集り、当時、平戸は名実ともに日本を
代表する国際都市であり、「西の都」と呼ばれるほど繁栄していた。
一方、西欧諸国との貿易ではキリスト教布教の問題があった。
天正15年(1587)の秀吉による宣教師追放令、慶長18年(1613)の家康
による禁教令にしたがい、松浦氏の歴代藩主も中央政権の方針に従って
勧商禁教の方針をとっていた。
幕府は,封建支配のさまたげになると考えられたキリスト教の禁止を徹底
させまた,西日本の大名がによって勢力を強めることをふせいで,幕府が
貿易の利益を独占しようとした。
貿易の利益のため,はじめはキリスト教を黙認したが,1613年に全国的に
キリスト教の禁止を命じた。
1616年にはヨーロッパ船の来航を平戸・長崎に限定し,
1624年にはスペイン船の来航を禁じた。
1633年には奉書船(朱印状のほかに老中、奉書という許可証をもった船)
以外の海外渡航を禁止し,1635年には日本人の海外渡航と帰国を禁止した。
1637〜38年の島原・天草一揆(島原の乱)の後,1639年に第3代将軍徳川
家光はポルトガル船の来航を禁止して鎖国を完成させ,1641年には平戸の
オランダ商館を長崎の出島にうつした。
こうして鎖国下の貿易港は長崎だけとし,オランダと中国(清)の船だけの来航
をゆるした。
16世紀中頃から約100年の長きにわたる平戸の対外貿易はここに幕を閉じ、
”国際都市”平戸は歴史の表舞台から消えることとなった。
「西の都」と呼ばれた平戸
映画「幸橋」公式ホームページ
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