2010年02月07日
長崎平戸/映画「幸橋」:じゃがたらお春
~鎖国により国外追放された混血児~
寛永13年(1636)5月19日に発せられた幕府の通達によって混血児の受難が始まった。
幕府は、キリスト教をひろめることにつよめていたポルトガル人、イスパニヤ人の国外退去を命じる施策の一環として、長崎奉行に下知状を発した。
一、南蛮人(ポルトガル人、イスパイニヤ人)ノ子孫ハ、日本人ニ残シ置カザル様堅ク申付ケル事、モシ違背シテ残シ置クアレバ、死罪。親族ノ者モ処罰ス。
一、長崎ニイル南蛮人ノ子供、又ハコレラノ子供ヲ養子ニシテイル者ハ、父母等一人残ラズ死罪 ニ価スルガ、一命ヲ救ケ、南蛮人ノイル地ニ赴クコトヲ許ス。但シ、日本ニ帰ッテキタリ文通 シタリスル者ハ死罪トシ、ソノ罪ハ親族ニモ及ブ。
この下知状によって、ポルトガル人の血をひく混血児とその母ら287人の国外追放が決定した。
同年7月8日、ポルトガル船四隻が長崎に入港し、8月13日に追放者をのせてマカオに去った。これらの者の中には、混血児以外に、日本人の妻になったポルトガル婦人、混血児の母である日本女性、混血児を養子とした日本人夫婦、ポルトガル人の妾であった日本女性などがまじっていた。
そのため、家族の中で父、母、兄弟、姉妹のいずれかが永久追放をうける悲劇が起り、互いに悲しみ嘆きあう声が海岸にみちた。やがて、かれらは警護の者に追い立てられて船に乗せられていったが、かれらの泣声は船が港から出て行くまできこえていた。
その後、島原の乱があって、幕府は一層異国人に対する警戒を強め、ポルトガル船の来航を禁じた。さらに貿易を許していたオランダ人に対する圧力も強化し、寛永16年(1639)2月21日に、長崎奉行に対しオランダ人等と日本人との間に生れた混血児等に対する追放令が通達された。
おらんた人 二 日本 一 子を持候儀、可 ニ 停止 一。此跡持候子ハ、其父もつけ、母共に異国 へ可 レ 遣事
オランダ人は日本で混血児をもつ事を禁じ、今後混血児をもつような事があった場合には、父であるオランダ人につけて、母である日本女性とともに海外へ追放するというのである。
混血児は、それまでにもしばしばジャカルタに追放されていたが、この訓令によって、その年の9月にはオランダ、イギリス系の混血児とその母親などがバタビヤに放逐された。
その中には、お春という15歳の混血児もまじっていた。

お春の父はイギリス人とされていたが実際はイタリヤ人で、37歳の母、19歳の姉である混血児まんとともに追放になった。お春は、母、姉と嘆き悲しみながら長崎からバタビヤに移住させられたが、22歳の折に平戸生れの紅毛人シンモンスと結婚し、子にも恵まれた。彼女は美しい女で頭もよく、習字、読書も心得ていて、異郷で生きる淋しさと望郷の思いを字に託して、故郷の縁者、知人に手紙を送った。
それは、じゃがたら文といわれたものだった。


「日本こひしや、ゆかしやなつかしや、見たや~」
「むねせまり、くるしきまま書とめまゐらせ候」
「あまり日本のこひしくてやるかたなき折ふしは、あたりの海原をなかみ候より外は御さなく候」「ただ一たび仏の御あはれみにて、日本へ帰申べしとこそ思ひまゐらせ候。たとへ三日をすぐし侍らで、きえ果てまゐらせ候共いささか、くるしからず候」
その後、混血児の追放は絶え、遊女がオランダ人の子を産むことも、奉行所の定めた正規の手続きをふめば少しも非難すべきことでなく、一般人として扱う旨の訓令があった。これによって、遊女が混血児を産むことも多くなったが、果たして混血児が社会の中でどのように生きてゆけるかという不安は依然として残されていた。
映画「幸橋」公式ホームページ
http://saiwaibashi-movie.com
映画「幸橋」を企画した、「どらまか企画」のホームページです。
http://doramaka-kikaku.com
寛永13年(1636)5月19日に発せられた幕府の通達によって混血児の受難が始まった。
幕府は、キリスト教をひろめることにつよめていたポルトガル人、イスパニヤ人の国外退去を命じる施策の一環として、長崎奉行に下知状を発した。
一、南蛮人(ポルトガル人、イスパイニヤ人)ノ子孫ハ、日本人ニ残シ置カザル様堅ク申付ケル事、モシ違背シテ残シ置クアレバ、死罪。親族ノ者モ処罰ス。
一、長崎ニイル南蛮人ノ子供、又ハコレラノ子供ヲ養子ニシテイル者ハ、父母等一人残ラズ死罪 ニ価スルガ、一命ヲ救ケ、南蛮人ノイル地ニ赴クコトヲ許ス。但シ、日本ニ帰ッテキタリ文通 シタリスル者ハ死罪トシ、ソノ罪ハ親族ニモ及ブ。
この下知状によって、ポルトガル人の血をひく混血児とその母ら287人の国外追放が決定した。
同年7月8日、ポルトガル船四隻が長崎に入港し、8月13日に追放者をのせてマカオに去った。これらの者の中には、混血児以外に、日本人の妻になったポルトガル婦人、混血児の母である日本女性、混血児を養子とした日本人夫婦、ポルトガル人の妾であった日本女性などがまじっていた。
そのため、家族の中で父、母、兄弟、姉妹のいずれかが永久追放をうける悲劇が起り、互いに悲しみ嘆きあう声が海岸にみちた。やがて、かれらは警護の者に追い立てられて船に乗せられていったが、かれらの泣声は船が港から出て行くまできこえていた。
その後、島原の乱があって、幕府は一層異国人に対する警戒を強め、ポルトガル船の来航を禁じた。さらに貿易を許していたオランダ人に対する圧力も強化し、寛永16年(1639)2月21日に、長崎奉行に対しオランダ人等と日本人との間に生れた混血児等に対する追放令が通達された。
おらんた人 二 日本 一 子を持候儀、可 ニ 停止 一。此跡持候子ハ、其父もつけ、母共に異国 へ可 レ 遣事
オランダ人は日本で混血児をもつ事を禁じ、今後混血児をもつような事があった場合には、父であるオランダ人につけて、母である日本女性とともに海外へ追放するというのである。
混血児は、それまでにもしばしばジャカルタに追放されていたが、この訓令によって、その年の9月にはオランダ、イギリス系の混血児とその母親などがバタビヤに放逐された。
その中には、お春という15歳の混血児もまじっていた。

お春の父はイギリス人とされていたが実際はイタリヤ人で、37歳の母、19歳の姉である混血児まんとともに追放になった。お春は、母、姉と嘆き悲しみながら長崎からバタビヤに移住させられたが、22歳の折に平戸生れの紅毛人シンモンスと結婚し、子にも恵まれた。彼女は美しい女で頭もよく、習字、読書も心得ていて、異郷で生きる淋しさと望郷の思いを字に託して、故郷の縁者、知人に手紙を送った。
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この記事へのコメント
こんなに稼げるならもっと早く教えてくれよ!!
まだ始めて1週間だから2人しか八メてないけど、もう10万達成しちまった!
これじゃ3年間、安月給の工場で働いてた俺がバカみたいじゃねーか(笑)
http://onafriends.net/syo/5pgpwor/
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Posted by おいおいおい!! at 2010年02月20日 15:31


